ライラックの伝説
最近手に入れた『A Dictionary of PLANT LORE(植物伝承辞典・オックスフォード大学出版局刊)』という本では、ライラックについて、「花の咲いたライラックを屋内に持ち込むと不幸をもたらすと広く信じられていた」とある。
イギリス各地で採取された幾つかのエピソードが載っているが、なぜそう言い伝えられているのか、大元のところはよくわからない。
病人にとっては香りが強すぎるとか、ミツバチはライラックを好まないとか、ライラックの花が咲いている時期に仔牛を買ってはいけない、などという話もある。
家に持ち込んではいけない花としては、先日書いたサンザシやスノードロップがある。
いずれも、イギリスの一部の地方での言い伝えらしい。
一方で、庭にライラックがあるのは幸せな家庭のしるし、という説もある。これを採用することにしよう。
ところでこの本は古本で購入したので、あちこちに小さな書き込みがあり、中表紙には日付とともに、From mum and dad と書かれている。
元の持ち主は両親からのプレゼントを売ったようだ....(~_~;
生活者スナフキン
アニメ版ではフローレンという名がついているスノークのお嬢さんに出会うのもこの巻だ。
『ムーミン谷の彗星』はあまり読み返すことがなかったけれど、久しぶりに手に取って、些細なことに気がついた。
川岸に張ったテントの中からハーモニカの音がして、ムーミンが声をかけるとスナフキンが現われる。
スナフキンは火を起こして、スニフが持っていたコーヒーを沸かす。
今日はたまたまここにいて、明日はまたどこかへ行くのだと、コーヒーカップを三つ出しながらスナフキンが言った。
・・・なるべく物を持たず、身軽な旅を好むスナフキンが、来客用のコーヒーカップを持っているんだ....
この時のスナフキンは、ムーミンとスニフを歓待し、彗星の話をして、ハーモニカを吹き、ガーネットの谷間へ散歩に誘う。
スナフキンは二人に音楽を聞かせ、カード遊びや魚釣りを教え、途方もない話をし、おかげで旅は楽しいものになった。
・・・スナフキンは、遊び用のカードも持っているんだ....
そして、おもしろい話をせがむスニフに火山の話を聞かせたりする。それも、けっこう長い話なのだ。
ガーネットが輝く谷間で、スニフが言った。
「あれがみな、きみのものなの?」
「ぼくが、ここに住んでいるうちはね。じぶんで、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな。」
スナフキンのもうひとつの名言も、この巻にある。
「ものは、自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうがふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり....。
ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。」
体験され、自分の中に取り込まれたものだけが、ほんとうに自分のものになる。外側に保存したものと違ってそれだけが、死ぬ時にも持っていけるものだ。
スナフキンは、一方で必要なものを必要な時に、なぜかちゃんと持っているのだが、それがなくなっても執着しない。
定住はしないけれど、ある意味、ムーミンママ同様、生活の達人かもしれない。
孤独を愛するというスナフキンは、騒がしく面倒な人たちを煩わしく感じるとしても、人そのものがきらいなわけではない。
この巻ではむしろかなり饒舌で、ムーミンたちとの旅を楽しんでいるのだ。
終わりのほうで、スナフキンがハーモニカで子守歌を吹き、それに合わせてムーミンママが静かに歌うシーンは美しい。
イスカールナリ
これはバスチアンが「変わる家」にたどり着くひとつ前のエピソード。
混乱した「元帝王たちの都」からようやく抜け出し、長い孤独な旅を続けたバスチアンの心に、仲間がほしい、仲間に入れてもらいたい、という新たな望みが生まれた。
そうして着いたところは、霧の海の中にあるイスカールという小さな町だった。
イスカールの人々はけっしてひとりでいることがなく、常にグループになっていて、「イスカールナリ」(いっしょ人)と呼ばれていた。
彼らは思いの力を完全に一致させることで多くのことを動かしていた。
バスチアンはしだいに自分の思いが他の人々の思いと溶けあって一つの力になっていくのを感じ、共同体の一員になったことを実感した。
だがやがて、深いところで別の望みが動きはじめ、それが明らかになる出来事が起きた。
一羽の大霧がらすが現われ、船の上からひとりの男を掴み去ったが、他の人々は悲しみも嘆きもせず、何事もなかったように旅を続けた。
ここではみなそっくり同じで、かけがえのない個人はいないのだった。
バスチアンは、バスチアンというひとりの個人として、欠点もすべて含めて、あるがままに愛されたかった。
イスカールナリには和合はあったが、愛はなかった。
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意見の不一致も対立も起こらず、穏やかで完全に調和したイスカールナリの話は、あとでじわりと怖くなる。
みんな同じで完全一致という共同体を理想とするような力がはたらくことは常にある。
ある種のカルト的集団で、またはもっと大きな規模で、あるいは当たり前の顔をして日常の中に。
こんな話がある。
東洋の文化では、他者や自然界の存在に対して帰依の態度をとるため、対象と自分とがひとつになり、個としての自我の感覚が薄くなる。
それで、集団の中で皆といることに安らぎを感じるようになる。
一方で逆に、大勢の中で集団的な行動をとることを苦しく感じ、皆が右を向いているときにひとりだけ左を向きたくなるような人は、ヨーロッパ的な感性の持ち主である、と。
(高橋巌『千年紀末の神秘学』より)
これは、どちらが良い悪いということではなく、人間の魂はこのふたつの側面を持っている。
宇宙規模での太古の社会は、蟻や蜜蜂のような集合的な叡智によって形成されていたという。
それから気の遠くなるような宇宙時間を経て、人類は「かけがえのないこの私」という自我意識の発達の端緒についたのだ。
効率的なシステム社会なら、蟻や蜂やAIでも作れる。
では“人間であること”は、どこへ向かうのか。
人間は新しいものを創造し、失敗を重ね、狂気の淵を歩き、回り道をし、また別の望みを見出す。バスチアンの旅のように。
バスチアンにとっては、変わる家で見出した「最後の望み」が導きの糸になった。
生命の水の涌きでる泉へ.....この物語は人類史の縮図のようでもある。
ベリーの花
ハスカップ
ブラックカラント
グースベリー
ラズベリーはまだつぼみで、秋に実るブラックベリーはようやく葉が大きくなってきている。
華やかなチューリップや水仙が咲き誇る中、ベリーの花は地味だ。
花が美しい植物、葉が美しい植物、実が美しくおいしい植物....
枝ぶりが美しい植物、木肌が美しい植物....
“みんなちがって、みんないい”
自然界はそのように、多彩なダンスを踊っている。